2008年夏に思うこと。

去年の今頃は、不幸という文字がからみ合って台風のように、我が家に押し寄せてきた。
次から次へと大変なことばかりが、発生。
全く信じられないくらいの出来事に、家族もスタッフも必死にならざるを得ない日々が続いた。
もともと少し高血圧気味だった私。その日は4月だというのに雪が舞うような寒い曇り空の日で、もう少しもう少しと朝から銀行廻りや社会保険事務所。労働基準局など。ハローワーク。
経営者がしなくてはならない手続きなどが、山積みになっていたので、結構細かくて面倒な事務的な仕事をこなしていた。
「疲れたなあっ」と思った矢先、とうとう脳出血で倒れてしまったのだ。
「ああ、こんな時期に私は死んでしまうのだろうか。」柱にしがみついて倒れる寸前の私の脇で、年老いた父親は、気がくるわんばかりに、何度も受話器を握ってプッシュしている。
手が震え、まともに119へつながりそうも無い。


「ああ、じれったいね。救急車はこうよ。」119と自ら番号を押して、体からすっと力が抜けるようにその場に倒れてしまった。救急車に運び込まれても、ストレッチャーの上で「清さんもうすぐ、お客様がジョンの家に預けた犬を引き取りにくるから渡してあげてね。」そんな指示まで主人に託して。忙しくてもまかせ切ることができない性格の欲張り。
昔から、働く事をいとわず趣味のように働きとおしだった私。
けたたましく音を響かせながら救急車が走り出した。信号もスピード制限も無視。
ひたすら走り続け、あわただしく建物の中に運び込まれた。私はストレッチャーに横たわりながら、面白いほどの速さで、天井の蛍光灯が流れるように移り変わって行く様を目にしていた。
気づいたら病院の医師達が私を取り囲んでてきぱきと看護師達に指示する声がする。「ああ。これでたすかるのだわ。私。」そう思いながら気を失って行った。

3ヶ月の病院生活が過ぎ去った。ようやく、退院という日が近づいてきたが、左側の半身麻痺を掲げて退院となった。夏のシーズンを迎えて、さぞ、てんてこ舞いで右往左往していることだろう。そう思って海の日までに退院を希望した結果だ。
リハリビ訓練のおかげで、付き添い付きでなら、屋外も歩行できるようになった。
会話は、もどかしさを感ずるが、途切れ途切れ聞き取れる状態での発音ができる。
病院退院の日に主人が迎えに来てくれた。


そして私は自宅での不自由な障害者の生活が始まった。
着替えが大変で、主人を呼ばなければ、ズボンなどきちんとはききれない。
病気になる前、気にも留めていなかったこと。
トイレで用を足すことが、こんなに不自由なものだとは思っても見なかった。
主人は「軽い脳出血だなんていっても、一生こんな不自由な。自分の身のまわりの事すらできないような状態で、宿屋をやって行こうなんて。どうするつもりだ。」
とぶつぶつ文句。不機嫌に、いたわるどころか、不安な気持ちを私にぶつけてくる。
「弁天荘なんか売ってしまえば、いい!」怒りと不安で、そう冷たく言い放つ主人。
「やっぱりおれがやる。おれの好きなやりかたでやる。」心がくるしみ迷っているようだ。
その証拠に彼の発言は気まぐれなお天気のように変わった。
主人といえども旅館に関しては、素人に近い。どんなにあせって怒鳴っても、誰も従って、汗を流して働いてくれないとしたら、主人は怒り狂うに違いない。
スタッフ達が皆そろって横を向いてしまえば、弁天荘は空中分解してしまうだろう。
何しろ主人と私は、言うならば、私の惚れた「かっこいいイケメン」だったから。
少なくとも恋愛中の私にはそう見えた。
私が47歳のとき彼が48歳で私達は、大人同士の付き合いの果て、鳴り物入りで彼はこの家の婿に入った。繊細と思えた心は、ただ気が小さかっただけの事なのかもしれない。
結婚して10年。町内の集まりや地域の行事などに、当然この家の代表として出席している内に、彼は飛騨という田舎になじんでしまった。真っ黒に日焼けして、サービス業から程遠い位置に居た。

私と恋愛をしている頃の都会的な繊細さも、そよ風がふくような、心地よい優しさもなくなり、現実は、ただ私に恨み言をぶっつけてくるだけの、意地の悪い中年男と化してしまっていた。
そうなると、私も甘い声ばかり出して入られない。
口げんかに応戦するようになり、結婚した事自体が恨めしくさえ思え、何もかも悲しかった。
私が一生かけて作ってきた、人生の足跡が「旅館弁天荘」だから。
できる事ならこのまま続けたい。楽しみにしてくださるリピーターもいらっしゃる。

その日は夕焼けがきれいだった。なんとなく胸騒ぎがして、杖をつきながら旅館裏を歩き廻り、あたりを見回した。レオンが居ない。いつもの所につないでいたのに・・・・。
まさか?八つ当たりの虐待?
私にとっては、特別、わが子のように可愛がっているレオン犬なのだ。


遠くのドックランまで、歩いた。草がゆれている。「ああ。いたー。良かった。レオン!!」
もしや、と思い、呼んでみる。
レオンが私の声を聞いて「ワンワン」とほえて、主人がドックランの草むらから顔をのぞかしている。犬と散歩にドックランに来たが、あまりにも草がはびこっているので、泥だらけになって草を抜いていたらしい。
「草刈は毎月しなければ、草は一雨降れば伸び放題だ。おれだけでは追いつかない。」
「お隣の奥さんが怪我をされたそうだから、早めに夕食を取って、あなたお見舞いに行って来てほしいの。」
会話の受け答えにならない、それぞれがちぐはぐな会話で、肩を並べて、犬を引き連れて歩く。
きっと端から見れば仲良し夫婦として見えたことだろう。
怒り狂いながら、現状の施設を維持していく事に汗を流して、格闘し苦難の日々を送っていたに違いない。本当は優しい気持ちから、心配のあまり、苦い言葉を吐かせていたのかもしれない。私のそばに居て、私の姿を見続けている私の主人だから。まさかそれが最後の会話になるとは。


それから4時間後、彼は救急車の人となってしまった。
まさかの動脈りゅう破列、くも膜下出血という病名だ。突然予期せぬ状況。
6ヶ月の入院となった。何度か難しい手術にも耐え、私の握る手にかすかに握り返してくる。
「どうか神様。主人を助けてください。」どんなに口げんかしていても、命乞いをするのが夫婦。
近年の医療制度では6ヶ月以上の入院は許されず、たちまち医療難民になってしまう。
特養施設のある転院先を探して奔走しているうちに、年の瀬を迎えてしまった。「正月は宿が満室で忙しいの。4日には、きっと来るからね。それまで、絶対頑張って居てね。」耳元でそう、ささやいて私は年の暮れの病院を後にした。
もちろん、私自身がまだ車椅子を使う身だった。一人で街中を歩くのは体力的にも危ない。
1月四日に早速、病院を訪ねた時、主人は布団代わりのタオルケットを足に巻きつかせて、骨と皮に痩せ細った足をばたばたと動かしていた。「あらあら、どうしたいの。清さん。ちゃんと着せるから。暴れてはだめよ。」そう私は右手でタオルケットをかけなおす。
私の声を聞いて安心したように、すやすやと落ち着いた眠りに入った。
私がそばにいたところで、何もできない。なぜならば私自身が自宅療養中の身なのだから。
手をさすりながら、ただ見守っている事くらいしかできなかった。


1月5日の夜。消灯前、看護婦さんに、声にはならないまま。「ありがとう。おやすみ。」という口の形で告げたそうだ。そしてその晩、夜中急変し、彼は永久の眠りに付く始まりの道をたどり始めた。脈拍と血圧の低い数字で3日間頑張ってくれたが、8日の夜中、本当に深い眠りにはいり、息すらしなくなってしまった。
主人の看病だけをして日々を送りたいと思って、正月明けから春まで休業する事としたのに。その矢先、主人はあっけなく急変して、死んでしまった。
私はぼんやりと、窓越しに雪景色を眺めながら魂が抜けたように、一冬を過ごした。
そして雪解けの春、老犬で目が見えなくなっていた愛犬のレオンが、血便に悩まされたあげく、力尽き死んでしまった。主人の葬式が終わって3ヶ月。主人の後を追うように逝ったレオン。
私は、去年。半年の月日の流れの中に、私の主人とレオンと、愛する大切なものを失ってしまった。予期せぬ出来事が、めまぐるしく走り去り、あっという間の嵐のような一年だった。


体中の水分がすべて涙になって溶け出してしまうのではないかと思うほど、私は泣いた。
涙でぐちゃぐちゃの塩からい顔を、私のそばで残された3匹の猫達が代わる代わるぺろぺろなめてくれる。猫も犬も馬鹿ではない。空気を読む天才だ。
やがて季節は移り変わり、あっという間に夏が来て、今年は新盆として二つの魂を迎える。
そして今年は、畑部のスタッフを3人雇い入れた。
清さんの心配していた、ドックランも畑も旅館の庭も、そこそこ、きれいになっている。
私が元気で頑張っていないと死んだ人の供養もしてあげられないから。
忘れ去ってしまわないよう、涙を流して追悼したい。この世に姿はなくとも魂だけが私の命の中で生ればいい。想い出という扉を開くときっと、笑顔で居てくれるだろう。
だから精一杯体に気をつけて元気で生きていこう。生きることは楽しいことばかりではなくて、つらいことも、大変なことも苦しいことも不安なこともあるけれど。
命を大切に使い切らなくては。
私が今この世に生かされている限り。残されたものの勤めだと思うから。


 平成20年7月17日
旅館弁天荘 女将 森和歌子